その他色々


ゴミを考える

超有名サイトである“ほぼ日刊糸井新聞”の中で、糸井重里氏が書いた一文にとても印象に残っているものがあります。“財布の中から50円玉を取り出して、それを目の前に流れる川に投げ捨ててみましょう。”というもの。こう言ってしまっては身も蓋も無いですが、50円なんてほとんどの人にとっては、全く大したことのない金額です。しかし、それを投げ捨てろと言われて、全く躊躇せずに出来る人は、ほんのわずかだと思います。これが1円玉であっても、私なら躊躇します。

しかし、間接的にこれをやっているケースは沢山あるんじゃないでしょうか。家庭で出るゴミは、そのほとんどがお金を払って買ったものの一部です。野菜屑、肉の脂身、魚の骨・皮、包装紙・ビニールなどなど。野菜が入っているビニール袋などは、野菜を取り出した後の使い道がちょっと思いつきませんが、たとえそうだとしても、それを捨てる際には、“これはお金を払って手に入れたものの一部である”と意識します。つまり、(間接的にであれ)それはお金を捨てる行為なわけです。そういう意識を持って以来私は、買ったものは無駄なく食べるようになり、余計なものは買わないようになりました。現金を捨てるのは躊躇する一方で、その現金で買ったものを平気で捨てるというのは、私には矛盾しているようにも思えます。

ただ、これも程度問題ではあります。例えば(うちでは買いませんが)牛乳の入っている牛乳パック。内側のコーティングを丁寧に剥がした後、細かくちぎってパルプに戻し、手漉きの紙にする=エコな行為というのがあります。コレ、趣味の一環としてならアリだと思います。趣味というのは、基本的にはコスト度外視で、自分が楽しむためのものだと思いますので。しかし、ゴミの減量やエコといった視点でコレをやるのは、私にはちょっと厳しい。何よりも手間がかかりすぎるし、それに、手漉きの紙が出来たからといって、私にはちょっと使い道が思いつきません。機能性では市販のコピー用紙に遠く及びませんし、風合でも紙漉きを本職としている人の漉いた紙には比べるべくもありません。

したがって、ゴミを捨てる場合にはいつも、“それは本当に、許容可能範囲内のコスト(時間・手間など)で有効に利用する事が出来ないか?”と考えます。また遡って物を買う場合にも、“せっかくお金を払って買うのに、どうあがいても使えなくて、捨てなくてはいけない部分が多過ぎないか?”と考えます。この消費社会にあってゴミを捨てるということは、お金を捨てることに他ならないと思いますので。そのようにしていると、自然とゴミの量は減ってきます。私は、自分の出すゴミの量が減る事自体が、とても嬉しいのです。それはいわば本能的なものであって、地球や環境に優しいからなどとは、サッパリ思っていません。自分が楽しいだけ。私にとって重要なのは、翼の生えた想像力より、目先の損得・快感です。05/07/31(Sun)

ウソ金継ぎ・後編

一応、ウソ金継ぎ最終回です。今回は金をのせます。本格派の金継は粒子の細かい金粉を使うのですけれど、私は予算の関係上、製菓用の金箔を使います。ケーキの上にピラッとのっていたり、一昔前バブリーな日本酒に入っていたりしたあれです。私が買ったのは確か一袋300円。重量にすると全然たいした事ないんですが、金箔はものすごく薄いので、これくらいの量でも多分私が一生ウソ金継ぎに困らない程度の量はあります。

エポキシボンド(透明タイプ)の2液をよく混ぜ合わせ、ドライヤーの熱風を当てて温めます。こうする事で、エポキシの粘度が下がってサラサラになり、細工がしやすくなります。このサラサラになったエポキシボンドを、金をのせたい場所に薄く均一に塗り、その上から金箔を静かにのせます。この時、2〜3重になるくらいにのせた方が、あとの見栄えがいいです。1重だと薄過ぎて地肌が見えてしまう場合もあるし、何より弱いです。

金箔のとり回しには、決して金属のピンセットを使ってはいけません。金箔が張り付いて、取れなくなってしまいます。ベストは竹のピンセット。無ければ、竹ヒゴを加工して作ってもいいと思います。別にピンセット型でなくても、箸で摘むようにしても無論大丈夫。糊が付かないように、フッ素加工をしたピンセットが売られていますが、それでも大丈夫かも。やったことがないので、確証はもてませんが、理論的にはイケルはず。

エポキシが充分乾くのを待ってから、不要な金箔をカッターの先などで慎重にとり除き、念のためその上からもう一度温めたエポキシで薄くコーティングをします。最後に、1,500〜2,000番程度の細かい耐水サンドペーパーで、水をつけながらゆっくりと表面を磨いて完成。あとはホレボレと見惚れるのみです。

エポキシの乾き具合にもよりますが、全工程1週間〜10日程度でイケルと思います。ポイントはとにかく焦らない事。エポキシを乾かす、水で洗って乾かすなどの工程は、完全過ぎるほど完全に行ってから、次の工程に移ることです。これをやらないと、剥離の原因になりますんで。また、サンドペーパーで削るときも決して焦らずに。少し削ったら、作業を止めて指先で現場の確認。急いでこれを疎かにすると、最終的な出来上がりがガタガタになってしまいます。とにかく、一にも二にも焦らない事が肝要です。05/07/24(Sun)

ウソ金継ぎ・中編

前回の続き、今回はパテ盛りからです。パテといっても、私が愛用するのはエポキシパテではなく、エポキシ接着剤。理由は、最初にこれをやった時にたまたま手元にエポキシパテが無く、接着剤でやってしまったことが一番大きいんですが、結果それがいいみたいということで、今に至ってます。パテ盛りの時に、一番やりがちな失敗は、欲張って一気に盛ってしまい、中に気泡が入ったまま固まってしまうこと。これをやると、後で削った時に空洞が出てきてしまい、再び穴埋めをすることになります。しかし、気泡は小さいことも多く、埋め切れない場合も多々あって、そうなってしまうと削って埋め直しになります。完全に二重手間。

半面、接着剤だとパテに比べて元々粘度が低い(=サラサラ)ので、盛ろうと思っても一気に盛れる量は限られています。補修しなくてはいけない部分の大きさにもよりますが、私は大体3〜5回に分けて盛っていきます。一回盛ったら丸1〜2日しっかりと乾かし、リューターで表面を荒らして次の層の食い付をよくしてから、次の盛り。これを、充填材が少し盛り上がるくらいまで繰り返します。ポイントはこの“荒らし”と、毎回完全に乾燥させてから次の工程に移ること。焦ると失敗しますので、それこそ気長に&気長に。

それから、私が使っているエポキシ接着剤自体は透明なものなので、そのまま使うと後で削る時に、どこまで削っているのか、微妙なところが分からなくなります。また、万が一金が剥がれて地が見えた場合、ここが透明だとやや見苦しいので、接着剤の中にベンガラを混ぜて赤黒い色にしています。金との色の相性も悪くない。ベンガラというのは、江戸時代なんかによく使われた赤い塗料で、要するに鉄の赤錆を集めたものです。私は、東急ハンズで安く購入。無論、必須の材料ではありません。

そして、いよいよ最初の見せ場である削り。周囲の本体部分を削らないように細心の注意を払いながら、周囲の高さにあわせて盛り上がった接着剤をリューターを使って削っていきます。理想の高さは、周囲よりもほんの少し“紙一枚分”凹んだ状態にすること。この上から金をかけるので、最終的にピッタリにするには、この凹みが超重要になります。まっ、そうそう上手くはいきませんけどね。また、削る時も欲張らずに少しずつ削っていきます。欲張ると、エポキシが層ごと剥がれてしまう場合もあったりしますので、慎重に。果たして、こんなマニアックな文章を、誰か興味を持って読んでいるのかと疑問を持ちつつも、最終回に続く。05/07/17(Sun)

ウソ金継ぎ・前編

先日日記でアンティークのことに触れたんですが、ちょうど骨董市で蕎麦猪口を買って直したところなので、その経緯をツラツラ書いてみます。実は昨年の日記にアッサリと金継ぎの事は書いたのですが、せっかくなので、もう少しコッテリと詳しくいってみようかと。相変わらず需要が少なそうですが、いいんです個人サイトだから。

ちなみに、私のやる直しは、漆ではなくパテを使ったいわゆる“ウソ金継ぎ”。パテが口に当たるなんてけしからんとか、漆に比べて耐久度が著しく落ちる、とかいう意見もありますので、そのような意見の方は読まれないほうがいいと思います。私は、好きな器が再び使えるようになればそれだけで嬉しいので、それ以上難しいことは考えないようにしてます。剥がれてしまえばまた付ければいいだけですし、この方法で直した湯呑みは、5年以上使っても異常ありませんので、問題無いんじゃないでしょうか。

買ったの蕎麦猪口は、青絵の磁器。口と底の部分が少し欠けており、底の欠けは下手くそな詰め物がしてあります。釉薬部分は全体にヒビが入っており、そこに黒い汚れが染み付いている状態。全体的が埃まみれで小汚いですが、器の形のバランスと絵柄は悪くない。ちょうどこれから夏に向け、手打ちウドンを食べる機会がドンドン増えてくるので、買ってしまいました。骨董市にて一個300円のところを、せっかくなので二つセットで500円也。

とりあえず、汚れや要らない詰め物をとらないと話になりません。小汚い汚れは水で洗って綺麗にし、ざっと布巾で拭いて乾かしたら、下手くそな詰め物をリューターで除去します。リューターというのは、歯医者で歯を削るあのドリルのハンディ版と言うべきもの。何でこんなものがうちにあるかというと、私が直すの大好き人間だからです。このリューターで、不要な詰め物を全て削り取ってしまいます。この時に、拡大鏡のついたヘッドバンドがあると、作業が非常に捗りますが、無論これもうちにはあります。何でこんなものがあるかというと、以下同上。まあ、無ければ無いでどうとでもなります。ただ、無いと詰め物をとるのは無理なので、その詰め物を活かした直ししか出来ないでしょう。

次に、釉薬のヒビに染み付いた黒い汚れ。これは、器全体を濃い目の漂白剤の中に丸一日漬け込むことで、ほぼ綺麗になります。ただし、器の柄が焼いた後でつけたものの場合、柄も綺麗に無くなってしまいますので、激注意。大体、赤いのは注意が必要ですが、青いのはほぼ大丈夫。金とか銀も危ないです。この辺は、勘と経験と勉強です。

こうして全体があらかた綺麗になったところで、再び洗剤を使って綺麗に洗います。特に割れ目が露出している部分は、古くなった歯ブラシなどを使って念入りに。ここに油汚れが残っていると、のせたパテが剥落するという、非常に悲しい結果になりますので、とにかく念入りに。そして、水分も剥落の大きな原因ですので、乾燥も徹底的に行います。以下次へ続く。05/07/10(Sun)

Making of

この“ミソジノジスイ”を作るのに、どんなソフトを使っているのですか?と訊かれた事が何度かあります。多分、Homepage BuilderやPagemillという返事が返ってくることを期待しているのでしょうが、違います。このサイトは、“秀丸”というエディタで、HTML及びCSSを手打ちして作っています。この、ブログ全盛という時代に逆行する、まさに私好みの野武士な方法。そこで、こんなソフト便利だよというようなソフトを紹介しつつ、こんな便利なソフトもありますよ、みたいな情報を教えていただければ、これ幸い。

タグの手打ちという方法を採っている最大・唯一の理由は、自分のサイトの中にブラックボックスを作りたくないということです。自分のサイトのソースの中に、自分が理解できない部分があるなんて、私には耐えられません。HTMLを完全に理解しなきゃいけないので、敷居は多少高いですが、所詮HTML。大したことはありません。それに、分かってしまえばこれほどメンテナンスが楽な方法も無いと思います。なにせ、ソースを直接いじれるわけですから、それこそ痒いところに手が届くごとく、ありとあらゆる微調整が可能になります。

使っている“秀丸”は4,200円。ただ、一般的なパッケージソフトと違い、どれだけバージョンアップしても、アップグレードの料金を取られることはありません。一生この価格で、最新版が使えます。私は、大学生の時にレポート用として買って以来の愛用者。その頃はまだ消費税が無く、4,000円でした。元々サイトを作るためのソフトではなく、文字を打つためのソフトなので、使い道は無限といっていいほど広く、十分元はとりました。特にライター系・プログラマ系の人に愛用者が多いです。

しかし、全てのタグをポチポチと打つのはあまりに大変なので、多少楽もしています。例えば、このサイトで一番よく使うタグである<p>などは、次のように辞書登録しています。p→<p>、@p→</p>、dp→<p></p>。つまり@が閉じタグを意味し、dが開始タグと閉じタグのセットを意味します。本当によく使う、PやH4はこうやって登録してまして、結構便利。

また、この“秀丸”にはGREP置換機能というのがついてまして、これがサイト構築には非常に便利。この機能を使えば、このサイト全体の“ミソジ”という文字列を、“ヨソジ”に変えるなんて事が一発で出来ます。まあ、そんなことはしませんが、よくやるのはこのサイトの左側に共通で付けている、各ページへのリンク表の一斉更新。全ページ全く同じものを使ってますので、変更があると全ページいじらなきゃなりません。こういう時には無類の威力を発揮します。

ただ、このGREP置換にも大きな弱点がありまして、置換する文字列の中に改行が混ざると不可、なんですね。ですので、表の順番を入れ替えたり、ある箇所に新しい項目を入れたりということは出来ません。その時に使うのが、“ReplAce”というソフト。そのまんまの名前ですが、これを使うと改行混ざりの文字列のGREP置換という夢のようなことが可能になります。このソフトを見つけた時は、感涙に咽びましたよ、私は。

それから、HTMLの手打ちをやっていると、コピー&ペーストという作業が非常に多くなります。ところが、WINDOWSのコピーは文字列を一つしか覚えられないので、ある文字列を覚えると、その前に覚えた文字列は破棄されてしまいます。この弱点を補うソフトが“CLCL”。これを使うと、いくつでもクリップボードの履歴をとっておくことが出来ますし、特定の文字列を登録して、いつでも呼び出すことが出来ます。HTMLを手打ちする際において、このクリップボードの履歴をいくつでもとっておけるというのは、泣けるほど便利な機能です。というか、無いと手打ちは無理。また、このサイトでは、最新の更新場所にはを付けることにしていますが(たまに忘れるけど)、これもCLCLを利用しています。

あとこれは、HTMLの編集と直接の関係はありませんが、ソフトの起動は全て“CraftLaunch”を使い、ファイルの管理は“あふ”を使ってます。これらは、マウスではなくキーボードで操作することを念頭に作られているソフトです。最近のWINDOWSは至せり尽くせりで、マウスで分かり易く操作できるようになってますが、私はキーボードでチャキチャキ操作して、マウスにはほとんど触らないのが好きなので、こういうソフトを採用。まあ、趣味ですけど。

そして最後に、ファイルのアップロードは定番の“FFFTP”。ここに挙げたソフトは全てVectorで手に入れることが出来まして、秀丸以外は全てタダです。WordやExcelといったパッケージソフトを大型百貨店とすると、これらのソフトは個人経営の専門店。機能はずっと狭いですが、動作が軽快なうえに、その狭い範囲内での使い勝手は抜群。私、こういうソフトを探し出して使うのが大好きなんですよ。まあ、完全に趣味ですが。

あまり一般受けしそうに無い話を長々と書いてしまいましたが、結局何を言いたいかというと、自分も似た様な趣味があり、こんなソフトも使いやすいよ、みたいな情報があればいいなということです、ハイ。05/07/03(Sun)

財布は四つで

こうやって毎日書いている日記を読まれた方から、几帳面でしょうと言われたことがあります。確かにそういう面もありますが、お金の管理と言う点では、私はものすごい丼勘定です。財布四つが私の基本。仮にA〜Dとすると、中に入っている金額は、順番に大きくなります。

まずA。これは日頃持ち歩いている財布で、中に入っているのは基本的には499円〜1,499円です。つまり、500円を切ったら千円足すという体制。まるで中学生のような財布の中身ですが、職場が家の近くにあり、自転車を足としているので、これで十分なのです。この財布は、主に毎日の食材を買うのに使います。毎月の食費が約7,000円なので、食材の買い物一回分としては、これだけ入れていれば十分過ぎるほど。また、お金を払う時は常に財布の中の小銭の数が最小になるように、50円玉や5円玉を駆使して出します。こうすることで、常に財布の中身をきちんと把握し、余分な支出を抑えることが出来ます。そのため、小銭貯金箱というものは、うちには存在しません。

次にB。これは古くなって使わなくなった財布を、家に置きっぱなしで使っています。この中に入っているのは常に1万円〜3万円程度。Aの財布への補充や、本代・散髪などにややまとまったお金を使う時は、ここから出します。

次にC。CとDは実際には現金ではなく、銀行の預金口座です。Cは公共料金・年金・保険料などの引き落としを一手にまとめてある口座。ここに入れておくのは、10万円。給料もここに振り込まれますので、溢れた分は次のDに預けなおします。また、Bのお金がなくなった時は、ここから補充します。つまり、日常的に動くお金を管理する口座がこのCです。

最後にD。ここはCから溢れたお金を入れる口座です。このお金を使って、気が向けば資産運用などもしたりしなかったりですが、滅多なことでは消費に回さないお金がこれです。無論、旅行に行ったりパソコンを買ったりといった、Cのキャパを超えるまとまったお金が必要な場合は、ここから出しますが、基本的にはこの口座は篭城用です。

つまりお金の流れはは、A←B←C→Dと極めてシンプル。おまけにその移動は、その財布の中身が○○円を切ったら(もしくは超えたら)、という超単純なもの。でも、これで案外うまくいくんですよ。一番のポイントは、使える状態のお金を、極力手元に持たないということ。財布に万札を入れてデパートを歩いたら、私だって何か買ってしまいます。何か買いたいけど財布にはカードも現金も無い、その時に銀行に行ってお金をおろしてまで買いたいものなのか、また、銀行に行って帰ってくる間も気が変わらないくらい買いたいものなのか、このフィルターはかなり強力。

カードの発想というのはこれと正反対ですね。買いたくなったけど手持ちが無い、だけど、その場で買ってしまえる。これだと際限なく買ってしまうのは当たり前。あえて、お金を使うのを不自由にしてしまう。これが私の金銭管理の最大のコンセプトです。ですがその反面、A以外の財布は、その中に入っているお金が現在○○円だから…というように、キッチリとは把握していません。その辺非常にアバウト。ですので、夜な夜な貯金通帳を見てニヤリと笑う、なんてこともありません。そういう趣味はないんです、ハイ。05/06/26(Sun)

洗い物くらいは

“洗い物は俺がやるよ”“洗い物くらいは、やってよね”というのは結構よく聞く会話です。が、以前からこれには疑問を持っていたのですよ、ワタクシ。洗い物って結構奥が深いんですよ。まず基本中の基本ですが、入っていたものによって洗い方を変える。油ギトギトのフライの入っていた皿と、お新香を刻んで入れてあった小皿があったとして、それをとりあえず洗剤を張った洗い桶の中に突っ込んでしまうのはナンセンスだと思います。

原則は油汚れの少ないものから多いものへ。うちは洗剤を全く使わず、熱めのお湯と木綿の布巾で洗ってしまうのですが、当然洗い方も変えます。先に例に出したお新香の小皿は本当にさっと流すくらいで十分。フライの入っていた皿は、きちんとお湯を当てながら、しっかりと洗います。(ちなみに、洗剤を使わなくても、十分綺麗になります。)ご飯を炊いた鍋は、デンプン質が糊の様にこびりついていますが、これは亀の子ダワシを使えばすぐに綺麗になります。

つまり、ものによって洗い方や洗う順番をきちんと考えながらやると、“たかが洗い物”にはならないと思うんです。そして仕舞う時も同様。ただ単純に見た目綺麗に積み重ねればいいというのではなく、次に使いやすいように考えて収納することが大事。ということは、料理をしない人には理想的な収納方法は分からないんじゃないでしょうか。無論、ひとつひとつ教えていくことも出来るでしょうが、食器や調理器具の配置って、実はかなり微妙。何かひとつ増減しただけでも、使いやすい置き方って変わってきます。それだったら、自分でやってしまったほうが早い気がするんです。

洗い物って料理に比べて一段低く見られているように見受けられます。実際、男性で料理をする人でも、洗い物はパートナーに任せっぱなしの人が結構多いのだとか。でも、料理と洗い物は常にワンセットだし、考えながらやれば、まるでパズルの様に面白い作業です。そういうのを何も考えずに、とりあえず洗い桶の中に全部突っ込んで、機械的に洗っていくから、楽しくないのかもしれません。作業中はまるでパズル、そして、綺麗に洗いあがった食器や調理器具がビシッと並んでいるのを見る快感。洗い物って奥が深くて、とても面白いんですけどね。05/06/19(Sun)

続・クレジットカード

前回散々クレジットカードの悪口を書き連ねましたが、読み返してみると、まだまだ書き足りないので、今回も続きます。前回、カードを使われると、小売店はカード会社にマージンをとられるうえ、支払いが数ヶ月先になると書きました。小売店としては、このマージンは顧客に払って欲しいところです。例えば、100円の物をカードで買われると、10円のマージンがカード会社に行ってしまい、90円しか手元に入らない。おまけに手に入るのは数ヶ月先。そこで、カードで支払う顧客には、“すんません、カード支払いの場合は110円になります”と言ってしまう。これが一番簡単。

でも、これはカード会社が厳禁している筈です。考えてみれば当たり前で、カードで支払うと代金が上がってしまうのなら、カード支払いの顧客は激減します。こういう目に見える負担に対しては、それがたとえ小額であったとしても、消費者はとても敏感です。こんなことをされたら、カード会社としては商売あがったり。

しかし、もし仮に小売店が、支払方法のいかんを問わず、価格を一律110円にしてしまったら?無論、定価が決まっている商品では出来ませんが、世の中には価格があってない様な商品の方が多いです。例えば、その辺のスーパーに売ってる大根。100円で売るべきだったものが110円になったって、誰にも分かりません。もし私が小売の立場で、カード決済の顧客が現金決済の顧客を凌駕するくらい増えてしまったのなら、当然価格を上げます。上げなきゃ、カード会社にマージンはとられるは、支払いは先になるわで踏んだり蹴ったり(無論、こっそりね)。つまり、カード支払いが増えることで、実質的に物価が上がってしまうわけです。

そしてもうひとつ、カード破産の問題もあります。前回も書いたように、利益が減る・代金を受け取るのが遅れるといった不利な面があるにもかかわらず、なぜ小売店がカード決済を導入するかというと、顧客がお金を使いやすくなるからという理由が大きいです。現金をドサッと渡すよりも、カードを渡してサラッとサインをする方が、支払い時の顧客の心理的なハードルはずっと低い。これは小売側としてはとても嬉しいのですが、反対に顧客側からすれば、お金を使い過ぎやすいということに他なりません。世の中に腐るほどカード破産が溢れているのをみれば、それは明らかでしょう。もし彼らに現金決済しか許されていなかったら、その数は数分の一〜数十分の一に減ると思います。また、たとえ破産までは至らなくとも、カードが無ければそんなに買わなかったのに、というケースは少なくないでしょう。

こうして考えてみると、日常生活を送る範囲内では、手元にある現金で、即金払いの生活を送ったほうがいいんじゃないでしょうか。なんか、メチャクチャ真っ当な意見になってしまった…。ちょっと恥ずかしいですね。05/06/12(Sun)

クレジットカード

最近ではキャッシュレス化の波が確実に押し寄せてきており、私がよく行く、小さなスーパーでもクレジットカードで買い物をする人をちょくちょく見かけるようになりました。電子マネーも随分浸透してきており、EddyやSuicaも一般に認知されるようになりました。携帯電話を電子マネーのカード代わりに使うことも出来るようになってきています。なんて便利な世の中になったのかしら、なんて宣伝されているのをよく聞きますが、果たしてそうなんでしょうか。

では、具体的に何が便利になったのか。小銭を持たなくてよくなる、というのを宣伝でよく聞きます。でも、小銭を持つのがそんなに大変なことですか?ってのが私の正直な感想。そんなもの、財布に入れて持ち歩けばよろし。出し方を工夫して、なるべく増やさないように心がければ、小銭なんて大したことありません。大体、小銭を持ちすぎて疲れたなんていったら、単なる笑い話です。

色々なポイントがつくのでお得、というのは確かにあるかもしれません。でも、売り手はどうしてポイントをつけるんでしょうか?小売店の側からすると、カード決済は現金決済よりも二つの面で不利です。ひとつは、カード会社にマージンをとられること。100円のものを売った場合、現金ならその店はまるまる100円ゲット出来ますが、カード決済の場合は、カード会社に幾ばくかのマージンをとられ、例えば90円しか手にすることはできません。そしてもうひとつは、代金を手にいれるのが先になってしまうこと。現金ならその場で代金を手に出来ますが、カード決済の場合は、カード会社から小売店への代金の振込みがあるのは、数ヶ月先というのが普通です。それなのに、ポイントまでつけてしまう。何故?

こうして考えてくると、同じものを買うだけなら、売り手側としては現金のほうが嬉しいのが普通です。しかし、売り手にとって不利なことばかりだと、たとえ買い手が便利でもこれだけカードが普及するわけはありません。では、売り手にとってカードを使われることの利点は何かというと、“支払ったという実感の無いままに、支払いをさせられること”、これに尽きると思います。

カードで買い物をする際は、100円のものを買おうが、100万円のものを買おうが、買い手が支払い時に相手に提示するのは同じカードです。だから、買う側は代金を支払うという感覚が、どうしても薄れてきます。これは、お金を使わせようとする側にとっては、非常に嬉しい。現金で100万円の商品を買おうとすると、多くの人は緊張するんじゃないでしょうか。銀行で100万円おろすと、それはもう完全な札束。それを持って店に行き、代金として店員に渡す、普通の人ならかなり考えた買い物になると思います。ところがカードなら、それを相手に渡してサインするだけ。売る側にとっては、こんなに嬉しいことはありません。

小銭を持たなくてよくなるとか、様々なポイントがつくとか、それなりの利点はあるかもしれませんが、それを補ってあまりある弊害−金銭感覚の麻痺があることを、忘れてはならないと思います。カード会社はあくまで営利を追求する私企業です。買い手側の利便性を向上させるという親切心が無いとは言いませんが、良い悪いは別にして、第一目的は利益の追求です。様々なポイントという出費をかぶっても利益が出るから、やってるわけで、その利益とは即ち、ひとつは小売店からのマージンであり、もうひとつは現金決済なら生じえなかったであろう支払いです。

私も一枚だけクレジットカードを持ってます。ネット上で買い物をする場合、代金引換配送だと手数料が高くて嫌なので、その場合のみ使います。ただ、本当に限られた場合しか、ネットショッピングはしませんので、年間の利用額は微々たるもの。日常生活の支払いの99.9%以上は現金支払いです。滅多にありませんが、たとえ数十万円の買い物をするとしても、やはり現金一括を選びます。

古いと言われるかもしれませんが、私は、カード支払いを一種の借金だと考えます。その場はカード会社から借りて支払っておき、後でその分をカード会社に振り込む。これは、今ある分で今の暮らしを作っていこうとする私のスタイルには、どうもそぐいません。経営をするとなると話は別で、銀行から資金を調達し、たとえ利息を払ってでもそれ以上の利益をあげる方が有利な場合もあるでしょうが、個人の生活でこれをやる必要は、サラサラ無いと思います。特に日常の買い物で、カードを使う気は全くありません。ましてや、お財布ケイタイなんてなおさらです。05/06/05(Sun)

誰のための掃除?

他人を家に呼ばないための言い訳として、非常にしばしば用いられるのが、“部屋がとても汚いので、お客様を呼べる状態に無いんです。”というのがあります。また、この変化形として、“今度お客様が来るので、部屋を綺麗に掃除しなきゃ。”というのもあります。まあ、言いたいことは分からんでも無いですが、こういうセリフを聞くたびに、それでいいの?って思います。

つまり、部屋を掃除するのは、お客さんのためなのかってコト。自分で言うのもなんですが、私の部屋は、男の一人暮らしにしては、かなり綺麗な方だと思います(書いてしまったら、本当にナニでした。すみません)。でも、それはたまにしか来ないお客さんに見せるため、もしくは、そのお客さんに快適な時間を過ごしてもらうためではなく、そこで一番長い時間を過ごす、自分自身が心地いいようにするためなんですね。まあ、今度客が来るから、とりあえずコレは見えない場所に隠しとこうか、そういうことも無くはないですが、それはまた別の話。

意地の悪い私は、冒頭のセリフを真に受けて、“アア、この人は日頃とても汚い部屋に住んでいて、お客さんが来る時だけ掃除するんだな”と思ったりもします。無論、一種の謙遜からこのセリフが出る場合もあるでしょう。典型的なのは、本当は十分綺麗なんだけど、“イヤ、部屋が汚いんです”と言ってしまうケース。ある意味、非常に日本的です。それは重々承知のうえなんですが、このセリフの裏にはどこか、お客様が来る時こそ本気で掃除、そうでなければ八割方でもオッケーというニュアンスが読めて仕方ありません。深読みしすぎなんでしょうか。

私はそうではなく、自分が毎日過ごす空間だからこそ、常に本気で掃除すべきだと思ってます。人間慣れの動物ですから、慣れればどんな場所でだって暮らせるんですが、どうせ暮らすんなら、ピシッと整った緊張感のある空間で暮らしたいというのが、私の考え方。だから、冒頭の“部屋がとても汚いので、お客様を呼べる状態に無いんです。”という言い訳には、いつも違和感を感じてしまいます。

少なくとも私にとって、部屋は精神状態を映す鏡のような存在です。精神的に疲れてくると、部屋が散らかってくる。そんな時ちょっと無理をして部屋を綺麗にすると、少し背筋が伸びて、明日もボチボチいっとくか?ってな気になります。考えてみると、一日の大半を過ごす部屋の状態が、自分の精神状態に全く影響を与えないわけはありません。やっぱり部屋はきれいでなきゃね。05/05/29(Sun)

激辛

決して嫌いじゃないんですよ、辛い食べ物。家では結構鷹の爪を多用しますし、タイ料理やインド料理の辛さもほぼOK。日本人としてはかなり辛さに耐性がある方だと思います。そして、実際辛いのは好き。夏の暑い日の夜、鷹の爪をプラスしてかなり辛めにしたカレーを、汗をかきながら食べるのは、最高です。

でも、激辛はちょっとイカンと思うのです。最近はあまり見なくなりましたが、一時辛さ○○倍カレーというのが流行ったことがありました。どういう基準で判定しているのかよく分かりませんが、2倍3倍は当たり前、ひどいのになると50倍なんてのもあったように記憶しています。すっかり下火にはなりましたが、最近でも細々と生き残っているようですね。厨房を除いたわけでは無いので確信を持って書くのではないのですが、おそらく2倍のカレーも50倍のカレーも、鷹の爪以外のスパイスの配合は同じだと思います。そこに大量に鷹の爪をぶち込めば50倍という寸法ではないでしょうか。そんなことをしたら、料理全体としての味のバランスはどうなるんでしょう。

味というのはバランスで成り立っていると思います。甘い・酸っぱい・塩辛い・苦い・辛い、この五つの味が成り立つハーモニーが味。激辛というのはその中で辛味だけを突出させて、どこまでそれに耐えられるかを競っているわけで、これはもう料理を楽しむ・味わうのではなく、単に我慢比べ・記録への挑戦に過ぎないように見えます。早食い・大食いのところでも書きましたが、それは結局食べ物をオモチャにしているのに他ならないと思います。

辛さ○○倍というようなあからさまな例ではないけれど、カレー屋に入ったらとにかく一番辛いの、韓国料理屋に行けばとにかく真っ赤なやつ、そういう観点でメニューを選び、制覇の喜びに震える人がいますが、それもどうなんでしょう。ちゃんと味わって食べてるんですかね。日本人は一般的に辛さに慣れていないので、本場・本気の辛さだと辛味が突出してしまい、料理を楽しめないことが多々あると思います。そういう時は辛さを落としてもらったって、いいじゃないですか。料理は味わって美味しく食べるのが一番。辛さ○○倍を制覇して壁に名前が張られても、別にちっとも偉いわけじゃないと思うのです。05/05/22(Sun)

ゆっくり丁寧に

特に料理の経験が浅い人に対しての場合が多いように感じるのですが、“ゆっくり丁寧に”やりなさい、とアドバイスするケースが少なからずあります。私個人の意見としては、入口としてはこれでいいと思います。でも、これはあくまで入口だけ。“ゆっくり丁寧に”やる時期はなるべく早く通過すべきなんじゃないでしょうか。それなのに、いつまで経っても“ゆっくり丁寧に”が金科玉条の様に掲げられていることが多くて、疑問に思うことが多いです。

寿司屋のカウンターに座って、職人の手元をよく見た時に、“ゆっくり丁寧に”寿司を握る職人は達人とは言えないと思います。極限まで無駄を省いた最短距離の動き、しかもそれが無意識に行われている、これが達人じゃないでしょうか。

“ゆっくり丁寧に”に作業することで、作業している人はその作業を意識的に一つ一つ確認しながら行うことが出来ます。しかし、それを繰り返しているうちに、完成した部分は段々と意識しなくても出来ていくようになり、意識は次のエリアへと向かうようになります。ちょうど、ビルを下の階から建てていくようなもので、四階を作っている時は、一階〜三階は最初からあるのが当然の様に資材や職人のの通路・足場になっている感じ。“ゆっくり丁寧に”行うのは、あくまで足場を組み上げ、もう一段上の作業に意識が向けられるようになるための準備作業であるべきで、ずっとそれではちょっと困るのではないかと思うのです。

私は一人暮らし暦十年以上になりますんで、葱を刻む場合などは、かなりのスピードでガンガン刻んでしまいます。傍目にはとても“ゆっくり丁寧に”は見えないはず。一方、料理に慣れていない人は、ひと刻みひと刻み意識を振り向けながら刻み、それでも結果は結構不揃いになってしまったりするかもしれません。最初はそれでもいいかもしれませんが、ずっとそれだと困るでしょって話。

違う例を出すと、私は料理の味付けはほとんど勘でやってしまいます。途中で味をみて、適宜修正。他方、レシピを見て忠実にそれを再現しようとする人って結構います。味付けだけでなく、火を通す時間までも。多分、後者の方が“ゆっくり丁寧”に見えるでしょう。でも、それって要するに自分の味の基準を持ってないって事じゃないの?とも思ってしまうのです。最初はレシピを見るのは非常に有用です。レシピどおりに作ってみて、アァこんな味なんだねと理解する。でも、次に作る時はその味を目指して自分の舌を頼りにバババッと調味料を入れていく、そちらの方が上達への近道なんじゃないでしょうか。

私は決して“ゆっくり丁寧に”が全く悪いと思っているわけではありません。入口はそれでいいと思います。でも、目指すのは“手早く最高の結果を”ではないかと思うのです。こういうの、案外どこでも言われてないんですよね。タブーなんでしょうか。ちなみにこれは、料理に限った話ではないと思います。これ以上話を展開していくと危険なので、以下略。05/05/15(Sun)

地球に優しく

唐突ですが、私は風呂・洗面所では“シャボン玉石鹸”という無香料石鹸を使ってます。石鹸分99%(あとの1%は何?)で、文字通り無香料。石鹸本来の香りしかしません。使い始めたきっかけは、友人に一個貰ったこと。そのまま捨てるのもモッタイナイしな、くらいの軽い気持ちで使ったのですが、あまりの香りの無さに衝撃を受けました。一般的な石鹸って、あんなもんだという先入観があるので特に何も感じませんが、冷静に・客観的に嗅ぐとかなり強烈に香料を使ってます。私もそれまでは特段不自由なく使っていたのですが、無香料石鹸を使い慣れてしまうともういけません、通常の香料の入った石鹸が気持ち悪くて使えなくなってしまいました。

最初は石鹸だけだったのですが、そのうちシャンプー・リンスもダメになり、時を経ずして全て無香料石鹸に移行。床屋のにーちゃんに、櫛が通らないから何とかしてくださいよと泣きつかれるくらいしか不具合はありません。

と、ここまでが前置き。こうやって無香料石鹸を使うようになると、とりあえず困るのは補給。あまり売って無いんですね。で、一番手に入りやすいのは、フェア・トレード系の店。有機野菜を泥付きで売り、スタッフはオーガニック・コットンで作った藍染の服を着て頭にはブカブカの帽子、店内には宗次郎が流れる、そんな店。私はこういう店にはほとんど寄り付かないのですが、背に腹はかえられぬ。行ってまいりました。そして、無香料石鹸を15個もまとめ買いすると、向こうも私がその筋の人かと思って積極的に話しかけてきます。洗濯にも粉石鹸を使っているんですよね?と当たり前の様に言われたので、“いや、アタック(仮)です”としれっと答えると、向こうの態度が豹変。

もうね、突然扱いが犯罪者並になるんですよ。曰く、石油系の洗剤は地球に与えるダメージが大きい・アトピーの原因にもなっている云々。こちらの粉石鹸をお使いなさい、自然に分解されてすぐにメダカも棲めるような水になります云々。もう、何だかなという感じ。

自分で言うのもなんですが、私は超がつくほど想像力が貧困です。流した洗剤が目の前の川に泡をたてながら流れ込んでいく、それを見てマズイなとは思います。でも、洗濯機から下水に流れ込んでいく洗剤が地球に与えるダメージについては、具体的なイメージが沸きません。必要以上に洗剤を使おうとは思いませんが、それは環境に配慮してというよりも、むしろ使いすぎると洗濯効率が落ちるからに他なりません。大体、無香料石鹸を使っているのだって、普通の石鹸は香りが強すぎるという直接的な動機からであって、地球に与えるダメージをそうすることで小さくしようとしたわけではサッパリ無いのです。

自分で書くのもどうかと思うのですが、私の暮らしぶりは、平均的な東京人の暮らしよりも、かなり地球へのダメージは少ないと思います。でも、それはあくまで結果論。ゴミが少ないのは金を払って手に入れたものはしゃぶるが如く使い尽くそうというケチ根性の結果だし、使う洗剤をなるべく少なくしようとするのは洗濯効率を下げないの+洗剤がもったいないから。環境に優しくなんて、ケ程も考えてはおりません。私はこういう面では、ものすごい現実主義者なのです。

広大な想像力を持ち、それを駆使して地球環境を守る、そういう人がいてもいいかもしれません。でも、多くはないでしょうし、長続きはしないと思います。環境問題についても、もっと下世話に考えてもいいと思います。無駄なく暮らせば、結果的に結構環境に優しくなったりもするんですよ(あまり興味ないけど)。大体、そんなに肩肘張ってたら疲れてしまうでしょ、と。あの店はもうちょっと勘弁です。05/05/08(Sun)

100円ショップ

数年前に、うちの近所に100円ショップが出来た時は本当に驚きました。まさか100円ショップで食料品を売るようになるとは。スーパーで売っているものならほぼ扱っており、なんと肉・野菜といった生鮮食料品まで売ってます。私の中の100円ショップはせいぜい文房具+αという位置づけだったので、本当に驚きました。

でもね、冷静に個々の品物を見ていくと、案外使えないんですよこれが。一言で言ってしまえば、“高い”。百円ショップで高いというと奇異に聞こえるかもしれませんが、要は買える量が少ないってことです。例えば豚バラ肉100円のパック、よく見ると内容量が70gだったりします。ということは、100gあたり140円。全然安くないんです。おまけに、よく買い物をする人は安くないことが分かっているから買わない→売れ行きが悪くて回転が悪い→品質落ちるという悪循環。

これは、野菜や乾物についても同じことが言えます。大根が100円で売られている。でも、1/4カットで鮮度もイマイチっていうことになると、100円は高いわけです。無論、大根一本買っても使いきれないわってな向きにはいいでしょうが、少なくとも私は業務用スーパーで平気でバンバン買い物をして全部使いきれるテクニックを身に付けてしまいましたので、より一層不要。

そんな人が多いのか知りませんが、レジで並んでいて周りを見渡すと、生鮮食品を買っている人はほとんどいません。こう言っては何ですが、生鮮食料品系買っているのは、あまり料理をしたことのなさそうな、おじさんくらい。特にこの100円ショップは、歩いて数分のところに普通のスーパーがあるので、よりその傾向が顕著なのかもしれません。店の売れ筋は、スナック菓子や清涼飲料水。若い人が結構買ってます。ということで、やっぱり私には縁が無い。

生鮮食料品に加え、今時の100円ショップでは調理器具や食器まで売ってます。包丁まで100円で売ってたりするのが、驚き。こういうものを上手く利用して生活費を節約する動きもあるようですが、こちらにも私はイマイチ乗り切れません。器に関しては、なにせ私は器道楽ですから、100円ショップの器は論外という意識がありまして、全く眼中にないんです。小さな子供のいる家庭で、器をよく壊されるというような事情があれば格別、いい大人が100円ショップの器で毎日食事をするのはちょっと寂しい。よく品質を確かめてみると、100円ショップの器はやっぱりそれなり以下のものなんですよ。100円ショップで買ったようには見えない、とはいってもやはりそれは100円ショップの品質なわけで…。こういう店だって商売でやっているわけですから、売って損になるようなものは置いていないのです。100円で利益を出せるような器を毎日の食器としては使いたくないなあ、と思ってます。

調理器具もこれと同様。道具というのは愛着をもって使い込んでいくものだ、と個人的には思っていますので、ある程度長期間使うことを考えると、100円ショップの道具はどう考えても不安。100円で売っても利益のでる包丁・鍋なんて私は恐ろしくて使えませんし、たとえ使ったとしてもそこに愛着を感じることは出来ません。私はケチを自認してはいますが、お金というのは所詮使うためにあるものだとも思ってます。身の回りに長く置いておくものに対して出費をケチり、100円ショップのような店で買ったものに囲まれて過ごす毎日は、私には我慢できません。貧乏なのは一向に平気ですが、貧乏臭いのはちょっと嫌なのです。

そんなわけで、100円ショップは使わない主義の私ですが、唯一の例外が小麦粉。常に1kgで小麦粉を売っている店なんて、他にありません。使ってみると案外品質も悪くない。うちでは月に約2kgという、一人暮らしにしてはかなり多めの小麦粉を消費しますので、愛用してます。でも、買うのはホントに小麦粉のみ。まあ、イキのいい事を言っておいて、結局は節操が無いのかもしれません、私。05/04/24(Sun)

大食い・早食い

最初に書いておきますが、私は他人よりもかなり食べるのが早いし、量も食べます。自分ではそんなに急いで食べているつもりもないですし、食事中に相手との会話もしますが、それでもなぜか早い。他人の食事が終わるのを待つことはあっても、待ってもらったことは今までありません。また、テレビに出られるようなレベルではありませんが、かなりの大食い。通常は、この辺でやめておこうという制御が働きますので、人並みにしか食べませんが、制御を外せばカレーの4杯や5杯は楽々食べられます。

ですが、メディアでやっているような早食い・大食いは嫌いです。あれ、作ってくれた人に対する感謝、ここでご飯が頂けるという感謝がまるで無いと感じるから。早食いはとにかく早く食べるだけ。大食いはとにかく多くのものを胃に詰め込むだけ。私がその食事を作る側だったら、怒りますよ。というか、そういう人に食事は作りたくないです。

確かに、外食の場合はそこに代金の支払いという形でお金が関わってきます。だから、○○分以内に××を食べられたら料金はタダという形で、店側が自分の宣伝をするのは自由でしょう。でも、それでも私は食べ物をそういうふうに扱うということに対して、強い抵抗感を感じます。外食店というのは、無論営利でやってますから、利益を上げてナンボです。そういう宣伝が功を奏し、お客さんが増えて、売り上げが上がれば商売としては文句無く成功です。ただ、食を生業としていながら、食に対してそういうスタンスをとるというのは、長い目で見ると自分で自分の首を絞めることになるのではないかと、私は思います。

外食はお金を払っているんだから、“いただきます・ごちそうさま”なんて言って相手に感謝の意を表す必要はない、という意見を聞いたことがありますが、これは違うと思います。どれだけお金を払っていても、料理を作ってもらったら、やはり“いただきます・ごちそうさま”なのではないでしょうか。そして、その延長線上として、出された料理はキッチリ味わっていただくのは当然のこと。早食い・大食いをしながらこれが出来るのなら問題ありませんが、普通は無理でしょう。効率を求めてネタとシャリを剥がして寿司を食べる、パンとウィンナーを分けパンを手で潰してホットドックを食べる。早く大量に食べるという目的にはかなうかもしれませんが、とても食べ物や作り手に対する感謝の気持ちがあるとは思えません。

こういう人たちが、賞金のためにゲームとして割り切っているのはわかります。でも、やはり食べ物はゲームの対象とすべきものでは無いと思うのです。どういう風に考えても、早食い・大食いは好きになれません。05/04/17(Sun)

家計簿

実はチマチマした小さな人間なので、家計簿をつけてます。家計簿は細かくつけようと思うといくらでも細かくつけられますし、細かくすればするほど、数を合わせる快感が出てくるものと思われますが、私は家計簿をつけることで支出に対する自覚を増し、その結果として無駄遣いを減らすことを目的としてますので、家計簿自体はそんなに細かくしてません。実際、かなり適当。

私は今時のヒトらしく、エクセルで家計簿をつけてます。職場では、エクセルを単に“表を清書するためのソフト”としか認識できない年配者が多々おりますが、エクセルは“表計算”ソフトです。そして、家計簿は表計算そのもの。使わないテはありません。家計簿ソフトを使うというのも選択のひとつではあるのですが、関数機能がある程度使えるのなら、自分だけの家計簿フォームを自在に作り出せますし、状況にあわせた微調整も簡単です。プリ・インストールされているパソコンも多いので、初期費用もかからないのではないでしょうか。

うちの家計簿は、毎日の支出をダラダラと打ち込んでいくシートと、それをピボットテーブルでクロス集計し、月ごと・科目ごとの表にするシートのペアで成り立ってます。ワンクリックでクロス集計してくれるというのが、ミソ。超・楽ができます。レシートは溜め込んでしまうと嫌になるうえに、数日経って内容を思い出せなくなるとかえって面倒なので、原則その日のうちに入力。帰宅後ズボンから財布を出す際に、財布からその日のレシートを抜き取って、ノートパソコンの上に置いておきます。で、夕食後にパソコンを立ち上げたら、何はともあれまずそのレシートを打ち込んでしまう。一日のレシートなんてほんの数枚ですから、あっという間。

ただ、スーパーで買った食材をいちいち個別打ち込んでいるとかなり手間がかかります。手間がかかると面倒になって続かないので、私はその日の生鮮食材は一括で“食材”として処理してしまいます。乾物は単価が高いので、一点一点入力してますが、そんなに買うものじゃないので、特に負担にはなってません。

そうやって毎日打ち込んでいると、不思議なことに余分な買い物をして余分なレシートを貰い、それが財布の中に入っていると、なんだか悔しい気になってくるのです。それが続くと、段々無駄遣いをしなくなるというわけ。コンビニでお茶やお菓子なんて、絶対に買えなくなります。逆に、それが私が家計簿をつけている最大の目的なので、これ以上細かくつけようとは思いません。

また、同じ理由から、月ごとの予算を決めることもしません。無駄遣いを押さえるのは確かにいいことですが、必要な支出までケチるようになると、それはいい生活とはいえない気がします。先月食費が○○円だったから、今月もその金額内でいこういう風には、私はちょっと考えられません。旬が変われば食べ物も変わります。その時の気候・気分・体調で食べたいものも変わってくるでしょう。そうすれば、食費が月ごとに大きく振れるのは自然なことなのに、それを金額で一律に切るというのはなんだか不自然な気がします。何事も、ホドホドにってことですね。05/04/10(Sun)


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